義母のことが、ずっと嫌いでした。
亡くなった今も、好きではありません。許せてもいません。
これは、義母をやっと理解できました、というきれいな話ではありません。嫌いなまま見送って、そのあとになって、あの人の十三歳を知った。ただ、あの傲慢でわがままな人にも、苦労はあったんだな、と思った。それだけの話です。
二世帯同居で、嫁姑の関係にすっかり疲れきっていた頃の私が、八月六日に一度だけ聞いた話を書きます。
義母のことが、ずっと嫌いでした
義母は、ひとことで言えば、子どものような人でした。
自分の思い通りにならないと、とにかく怒るんです。声を荒らげて、周りを黙らせて、従わせる。
「私が決めたからこれで終わり」
話し合いというものが、そもそもありませんでした。理屈ではありません。機嫌が悪ければ、それがそのまま正しさになる。そういう人でした。
今でも、ふと思い出す言葉があります。
「私の言うことに全て従っていればいいのよ」
冗談でも、勢いで出た言葉でもありません。本気でそう思っている人の言い方でした。
私が何か言おうとすると、最後まで聞かずに遮られました。こちらの言い分は、そもそも聞くものだと思われていなかったんだと思います。
だから私は、その場では何も言えませんでした。言い返せば、家の中の空気が何日も重くなるからです。夫も、自分の母親には何も言いませんでした。
不思議なもので、たまに、ふっと情けをかけてくれることもありました。私たちが困っていると、さっと助けてくれることもありました。そういう記憶も、確かにあります。
でも、正直に言います。
嫌なことをされた記憶のほうが、圧倒的に多いです。
亡くなった人に対してこんなふうに思うのはどうなんだろう、と自分でも思います。でも、思ってしまうものは仕方がありません。今日はあえて伏せずに書きます。

壁の向こうから見張られていた二世帯同居
私たちは、義父母と二世帯で同居していました。
玄関も台所も別で、間には壁がありました。それでも、あの家での暮らしは、私にとって「見張られている」暮らしでした。
何を買ったのか。誰が出かけて行ったのか。今日はどこへ行っていたのか。
聞かれる、というより、把握されている感じでした。車の音がすれば、出かけたことが分かります。帰ってくれば、帰ってきたことが分かります。買い物の袋を持って通れば、何を買ったのかも分かります。
「今日はどこ行ってたの」
その一言を、何度も言われました。悪気なく聞いているだけ、と言う人もいるかもしれません。でも、毎日毎日、出入りのたびに確認される暮らしがどういうものか、あの中にいた人にしか分からないと思います。
自分の家なのに、自分の家じゃないみたいでした。
そのうち私は、出かける時間をずらすようになりました。買い物袋は、見えないように持ちました。何か後ろめたいことをしているわけでもないのに、こそこそしている自分がいました。
理不尽だな、と思ったことは数え切れません。それでも私は、その場では何も言いませんでした。言えなかった、というほうが正しいかもしれません。
言えば、家の中の空気が変わります。何日も口をきいてもらえなくなることもありました。そのあいだ、夫も息子も、家の中でどこか気をつかって過ごすことになります。だったら私が黙っていればいい。そう思って、ずっと黙っていました。

八月六日、義母が一度だけ話したこと
そんな義母が、珍しく自分から昔の話をしたことがありました。
八月六日でした。
小学生だった息子が、読書感想文を何にしようかと、義父母の居間のテーブルでうんうん唸っていた日です。テレビでは、広島の式典が流れていました。
私は息子の横に座って、テレビを見ていました。
そのとき、義母がふいに言ったんです。
「あの日はね、遠くで赤く光ったのよ」
「みんな亡くなっちゃった」
私は、テレビに顔を向けたまま答えました。
「ふうん、そうだったんですね」
たぶん、そんなふうに返したと思います。義母の方をちらっと見ただけで、どんな顔で話していたのかは見ていません。
あのとき私の頭にあったのは、夕飯のことと、息子の宿題のことと、それから——今日はまだ怒られていないな、という、そんなことでした。
義母が何を話しても、私にとっては「あの人の話」でした。目の前にいるのは、私を困らせる人。その人が昔の話をしている。それだけだったんです。
聞いていました。耳には、確かに入っていました。
それなのに、私は何も聞いていませんでした。
十三歳の義母が失ったもの
義母は昭和七年の生まれです。原爆が落ちたあの年、十三歳でした。
義母が話したのは、こんなことでした。
あの朝、何が起きたのか、しばらく誰にも分からなかった。遠くの空が赤く光って、そのあと、よく分からないまま時間が過ぎた。
分かったのは、そのあとだったそうです。
ちょうどその頃、義母の友達が何人か、広島に帰省していました。夏休みで、実家に帰っていた。ただ、それだけのことでした。
その友達たちが、亡くなりました。何人も。
十三歳です。
同じ教室にいた友達が、夏休みが明けたら、いなくなっていた。
義母は、お父さんを早くに亡くしています。お母さんも、義母が結婚する前に病気で亡くなりました。
そういうことを、私はぜんぶ、あとになってから並べています。あの日、目の前にいたのは、十三歳の女の子の話をしている人でした。私はそれを、七十いくつの、嫌な姑の昔話として聞き流していました。
亡くなってから知った、二人の兄弟
義母が亡くなってから、知ったことがあります。
義母は、戦争で兄弟を亡くしていました。
二人です。
私はそれを、義母の口から一度も聞いたことがありませんでした。
あんなに、思い通りにならないと怒って。あんなに、周りを従わせようとして。あんなに、こちらのことは何でも知りたがった人が、そのことだけは、最後まで言わなかったんです。
隠したかったのか。触れてほしくなかったのか。それとも、口に出すようなことではないと思っていたのか。
分かりません。義母はもう亡くなっていて、聞く術がありません。
十三歳で、友達を亡くして。兄弟を二人亡くして。父親も母親も見送って。それを、誰かに聞いてもらったことがあったんだろうか、とも思います。
でも、それも私の勝手な想像です。分からないものは、分からないままです。

嫌いな義母を、嫌いなままでいい
ここまで読んで、それで許せたんですね、と思われた方がいるかもしれません。
いいえ。許していません。
今でも、ふと思い出しては、嫌だったな、と思います。
「私の言うことに全て従っていればいいのよ」
あの言葉を思い出すたびに、心の中でこう言います。
——ほんとに、嫌なばあさんだったな。
それが先です。今でも、そこは変わりません。
そのうえで、こうも思います。
十三歳で、そんな思いをしたんだな、と。
つらい体験をしたんだな、と。
それだけです。だからどうということでもありません。あの言葉が許せるようになるわけでもありません。
ただ、ひとつだけ、はっきりしていることがあります。
あの人は、人のことはあれだけ知りたがったのに、自分のことは何ひとつ言わなかった人でした。
【この記事のもとになった動画はこちら】


